野ざらし、最近聞いていないな。小三治の晩年、寄席にかけつけると、いつも野ざらしだった。名人芸を何度も聴いて飽きる、という贅沢なことをおれはしていた。

名人が大切にする芸は、素人のおれには、もしかしたらちっともわからないのかもしれない。最後の手術後、初のホール独演会で、小三治がうれしそうに、青菜をたっぷりやった。お屋敷のご隠居さんが手を叩いて家内を呼ぶ。その手を打つ音が思うようにならない間は青菜をかけなかったのだという。手を打った時に縁側が見えるか否か、ということを仰っていたと思う。
手術休養直前の池袋演芸場ではマクラで「パン、2、まる、見え」と元気よく手を打っていたのを思い出した。連日満員立ち見の池袋演芸場で、その前日に中央の通路に座って見ている女性客のパンツが見えたと喜んで手を叩いていた。そして、野ざらしに入ったような記憶。

名人が大事にかけた青菜の、たゆたう、ゆったりとした時間に、おれは思わずウトウトしてしまった。でも、それも味わいのひとつ。

 野ざらしって本当に変な噺。笑い話とされているけれど、しみじみ考えると気色が悪い。

夜、隣家から聞きなれない女性の声が聞こえることに男が気づく。壁に穴をあけて覗いてみると、隣人が若い女性と酒を交わしている。翌日、隣人を問い詰めると、釣りに行った際、人骨が野ざらしになっているのを見つけ供養をしてやった。夜になってその幽霊が恩返しにきたのだという。翌日、男は下心をムンムンに抱えて、若い女性の人骨を探しに河原へ釣りに行く。やったこともない釣りで大騒ぎして・・・

という噺だが、構成するモチーフは、河原に人骨が転がっている風景、死者があとをつけて訪ねてくる、女なら幽霊でもいいという劣情、人骨の中から若そうな女性のものを探すという無慈悲。地獄とまでは言い過ぎかもしれないが薄気味悪い背景のなかに、陽気な男が登場する。背景に対して男がコントラストとして浮かびあがる。すると笑い話として演じられ、聴かれるようになるのだから不思議なものだ。地獄におかれても人間は明るく生きるんだ、という含意まで見える。

 野ざらしという噺、できた頃は怪談だったんじゃないか。相当に古い噺だ。調べてみたら中国の明時代「笑府」に元になる話があり、江戸時代に落語に翻案されたそうだ。(おれの好きな平賀源内が抄訳に関わっているらしい)現代でこそ薄気味悪く感じるモチーフも、江戸時代では少しは身近だったろう。するとコントラストは成立しない。日常に垣間見える薄気味の悪さ、無慈悲に目が行くように思う。

 ひとつの噺が、時代によって演出の仕方が変わっていくことはあるだろう。もっと時代が経ったら野ざらしはどう変わるだろう。題材自体は、男、長屋(集合住宅)、幽霊、人骨、釣り、と時代が変わっても理解しやすいものが多そうだ。永年残る噺かもしれない。その頃には、おれの人骨が野ざらしになっていそうだが、楽しみは残る。