トイ・ストーリー5楽しんだ。今回、映画が言いたかったことのひとつは「デジタルアプリではなく、おもちゃを使った空想のごっこ遊びをしよう。それが本当の遊び」だった。いつになく、悪く言えば説教くさく、よく言えばこどもに直接的に訴えかけるメッセージだった。
そのメッセージ、中年のおれには伝わった。でも、こどもの観客には伝わらない。
おもちゃで遊んだことのないこどもにとっては、思い出す記憶がないから伝わらない。自分の楽しんでいるアプリ遊びを否定されただけだ。
おもちゃで遊んでいるこどもにとっては、おもちゃで遊ぶことで「変な子」扱いされて、さらに賞揚される、という不思議な体験だ。
映画館にこどももいたが、上映後、はしゃいでいる顔は見られなかった。
そもそも、こども本人にとっては「遊び」のよしあしなんてどうでもよいテーマで関心がないだろう。楽しければやる、そうでなければやらない。親がいやな顔をするほうが楽しい。その積み重ねが遊びになるだけで、遊びそのものを考える暇はない。
それに、本当の遊びと賞揚される「おもちゃ遊び」の楽しさが描かれていない。おそらくそれを描こうとして、パステル調のトーンで描かれる支離滅裂なこどもの妄想シーンはあった。でも、あれを観て「ぼくもおもちゃ遊びしてみたい」って思うのか。おれは否定的だ。映画全体のアクションや活劇こそが、おもちゃ遊びを誘発する材料ではあった。映画館の物販におもちゃが並んでいたらよかった。きっと、「遊んでみたい」って手にとるこどもが多かったと思う。
こどもが楽しいと思ってやっていることを、それを超える提案もなしに否定して、こどもにどうしてほしいんだ。
こうやって、トイ・ストーリー5を観て「遊びとは」についてくすぶるのは、おれみたいなくたびれた中年だけだ。映画を説教くさいと言いながら、自分も説教を書いている。
アニメ映画のターゲットである肝心のこどもに伝わらないメッセージだったことには驚いた。トイ・ストーリー・シリーズの主な観客はもう中年で親世代なので、そこをターゲットに制作しているのか。親世代に対して「お子さんにはおもちゃ遊びをさせてあげてね」というのが正確なメッセージだったのかもしれない。
さらに、トイ・ストーリー制作者の上の世代からしたら「おもちゃ遊びなんて本当の遊びではない。どこかの企業が、工業的に製造販売したおもちゃに縛られた空想なんてつまらない。企業の作ったキャラクターやストーリーではなく、自分と友達で空想を作り上げるのが本当の遊び」だろう。
年長者がこどもがアプリで遊ぶのを見て「劣化」と呼ぶのであれば、その年長者自身も同じ「劣化」の過程にある。その過程は不可逆で変えられない。一度手にしたアプリも、おもちゃも、手放せない。それをどう遊ぶかのほうが大事じゃないか。その変化が劣化なのかどうかは決められない。年長者は死が近いので、懐古主義も手伝って劣化と言い切りがちだ。
と、トイ・ストーリー5から(勝手に)読み取ったメッセージに反感を覚えたのも、自分が今やっている遊びのせいかもしれない。おれは今、他人の空想をなぞる楽しみにはまっている。ピカソの晩年のエッチング作品の模写。模写するつもりで絵を見ると、削りつけてある筆致や勢い、雰囲気、態度が普段よりわかる気がしてうれしい。出来上がる絵は似ても似つかない絵になるのだけれど、それはそれで空想の燃えカスのようでいとおしく感じる。





